宮城県気仙沼市唐桑町―
地元の“わかもの”と外から来た“よそもの”が、一緒になってまちのこれからを考える
復興まちづくりサークルです。
唐桑をひとつに 唐桑を色どる
ひとりひとりが“唐桑でやってみたい”を自由に発想します。
その思いにひとが集まり、いろんな色が加わる。
唐桑がひとつの絵になることを願って―
そんな出会いを私たちはデザインします。
地域の「再発見」「発信」「考える・つなぐ」以上3つの作業をサイクルのように繰り返します。
そして、その仲間たちとまた再発見の作業に入っていく・・・
地道で時間のかかる作業ですが、住民主体の復興・まちづくりの
基礎になるサイクルだと信じています。
こんにちは。
今年度より、からくわ丸の総大将(代表)を務めさせて頂くことになった、立花淳一と申します。
私は、現在からくわ丸の拠点である宮城県気仙沼市唐桑町の地元民で、27年間、唐桑と共に育って参りました。
皆様ご存知と思われますが、唐桑町もあの東日本大震災の被害を受けました。
私自身も家や家族は大丈夫でしたが被災者として様々な経験をさせてもらいました。
そんな中、昨年(平成24年)の7月からくわ丸との出会いがありました。
最初の頃は、若い子たちが集まっているとの事で、興味本位で顔を出すようになりましたが、少しずつ関わっていくうちに活動に対し、興味が沸きお手伝いをするようになります。
お手伝いの回数を重ねていくうちに活動や団体そのもの、活動している子たちに興味が沸き、それに比例する形で顔を出すのも頻回になりました。
そうやって少しずつ一緒に活動をしていくうちに、活動を通し自分の町の魅力の再認識や新たな発見が出来ました。
それと同時に代表であった、加藤拓馬という人物そのものや生き方、考えたに惹かれ、一緒に活動していきたいと思う気持ちが強くなりました。
そのような考えが自分の中で上手く混ざり合い、からくわ丸の皆と地元の仲間と一緒に唐桑の魅力を地元内外に広めたいと考え始めます。
そんな気持ちがお互いに強くなり一緒に活動をし始めて、今年(平成25年)1月に東京で、活動報告会を行いました。
その際、地元民として話す機会を設けてもらい、自分の想いや考えを話させて頂きました。
そこで、活動を通じて様々な方と繋がっていることを改めて実感し、自分にとって凄い刺激になり、より良い団体にしていきたいという気持ちともっと誇れるまちづくりをしたいと強く思いました。
そんな中、今後のからくわ丸の事を考え、団体メンバー全員で話し合った結果、地元民が代表を担うことで、今後この団体を地元民の団体としたいという考えに至り、今回私が代表という形を取ることになりました。
今後は、今までの活動で再認識もくしは新たに発見した唐桑の魅力を地元の方々へさらに知ってもらい、当団体だけでなく地元住人一丸となって唐桑を誇れる町にしていきたい、外へも唐桑の良さや魅力を知ってもらいたい、そのため様々な形でアプローチを継続して行っていきたいと思います。
そして、今後も活動を通し、様々な方法で唐桑の良さや魅力を探し続け、新たに創っていきたいと思います。
“良い意味で緩く長く”をモットーにしつつ、前年度築いたものをより良いものにし、活動を通し繋がった方々や地元の方々と今まで以上の関係を築き、自分たちが誇れるまちづくりを行っていきたいと考えておりますので、今後とも私を含め、からくわ丸を宜しくお願いいたします。
こんにちは、からくわ丸の仮の代表、加藤拓馬です。
少しだけ、私事を書かせてください。
私は兵庫県出身で、はじめは神戸に住んでいました。
それが阪神・淡路大震災で被災して、姫路に引っ越すことになりました。
小中高生時代を姫路で過ごし、大学進学のため東京に出ます。
大学卒業と同時に東日本大震災が発生、そのまま気仙沼市唐桑町という名前も知らなかったところに移り住むことになりました。
それから今まで、唐桑でいろんな方にお世話になりながら、復興支援活動をさせてもらっています。
大学時代は、しょっちゅう中国を訪れました。 中国では、ハンセン病の回復者が集う隔離村に泊まり込みで、セメントこねたりしながら生活インフラの整備をする「ワークキャンプ」という活動をしていました。 不思議なことにそれが楽しくて仕方なかったのです。 ハンセン病は、例え回復したとしても周囲の差別・偏見が解けないという現状が世界中で今なお色濃く残っている感染症のひとつです。しかし、私が目の当たりにしたのは、病によって人生を狂わされ打ちひしがれる地元住民(村人)ではなく、差別・偏見という逆境の上に立ってなお強く生きる地元住民の姿でした。 そして、私たちと一緒に村に入り、村人に真正面からぶつかっていく中国人大学生の姿でした。 強く生きるとは、「自分ひとりでは生きていけない」という当たり前の事実を認め、相手に対して心を開いていくことだと思っています。 周囲から恐れられ、敬遠されて生きてきた村人が見せるホスピタリティは、私には真似できないものであり、こうありたいと思わせるものでもありました。 そして、それは唯一「現場」でしか知ることのできないものであると痛感しました。
東日本大震災が発生して、私は東京で働くよりも現場に入ることを選びます。 バカな選択だと言われましたが、一緒に活動してきた仲間が背中を押してくれました。 唐桑という土地には、ハンセン病回復者だった故鈴木重雄氏と私たちの先輩との古い縁があります。 そして、鈴木氏の志を継ぐ馬場康彦氏が快く私たちを受け入れてくれました。 かくして、唐桑での居候生活が始まります。
それから一年。 私が唐桑で見たものは、日本のコミュニティの原点でした。 それは、「家」です。 唐桑の人は、家とともに生きています。 海からの恩恵で唐桑御殿と呼ばれる城のような家屋を建て、屋号という(苗字とは異なる)家々のオリジナルニックネームを掲げ、一族を誇る人種がそこにいました。 リアス式海岸が続く唐桑では、浜ごとに家が集まり集落を形成し、家の族である集落は字の通り「家族」です。 いい意味でも悪い意味でも家が人をつないでいるのです。 派手なことを嫌う一方で、一度信頼した相手は精一杯のおもてなしをしないと気が済まない厚かましさ。 それに対して一切の見返りを求めない見栄っ張り。 その代わり、有事には全力で支え合うという暗黙の了解。 いい過ぎかもしれませんが、そんな人々を私は見ました。 唐桑は「人はひとりでは生きていけない」という当たり前の事実が当たり前な場所。 きっとこれが、コミュニティと呼ばれるものの原点なのだろうと感じるのです。 日本だけでなく、洋の東西問わず。
中国で「人」の強さの原点を見ました。 しかし、村人たちは病ゆえ家族・故郷と切り離されてきた人たちでした。 ゆえに家族とは何なのかは分かりませんでした。 だからこそ今回、唐桑で家・集落という「コミュニティ」の強さの原点を発見しました。 そして、震災によって、そのコミュニティが揺らいでいるという事実も目の当たりにしました。
代表を名乗る私に何ができるのかは正直分かりません。
しかし、唐桑の人に何ができるのかは想像できるのです。
コミュニティの強さを自覚し、それを活かして復興まちづくりを進めていく。
まちづくりとは、過去を否定するものでも、真新しいものを導入するものでもありません。
昔からあるものをちゃんと理解し、逆らえない時代の波に合うように再構築する作業だと思っています。
唐桑の人が本気になって、一丸となり、屋号「唐桑」を名乗り、上記のまちづくりを推し進めたとき、そのエネルギーは社会に対しコミュニティの原点の見直しを迫り、日本を変える出発点になるものだと信じているのです。
そして「からくわ丸」という名前には、そんな願いと確信を込めました。
だから、私はあくまで今は仮の代表です。
からくわ丸の今後の活動にご期待ください。
じっくりゆっくり唐桑と付き合っていく所存です。
東日本大震災により甚大な被害を受けた気仙沼市唐桑町。
2011年3月24日よりワークキャンプ団体FIWC(Friends International Work Camp)が唐桑町に入り、
「FIWC唐桑キャンプ」を設立。
物資配布・ガレキ撤去・ボランティアコーディネートを中心に緊急支援活動を展開してきました。
2011年秋には、まちづくり支援を視野に活動方針を転換し、無料コミュニティ雑誌の発行をスタート。
そして2012年春、まちづくり・まちおこしの手法である「地元学」を知り、まちづくり活動は本格化します。
震災から1年を経て、緊急復旧支援プロジェクトだったFIWC唐桑キャンプは閉鎖。
そこで、長期的に地元住民と外部支援者の協働で唐桑の復興まちづくりを進めるべく、
地元の若者と現地駐在ボランティアメンバーで、2012年5月10日にからくわ丸を立ち上げました。